1. 錯体化学
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配位子置換反応の速度論

本節では錯体が関わる化学反応について学びます。ただし,化学反応とひとまとめにしてしまうと,とても範囲が広くなって,例えば,錯体が触媒としてはたらくような反応,あるいは錯体中の(金属に配位している部分ではない)配位子部分が何らかの化学変化を起こすような反応も,広い意味で錯体の化学反応の範疇に入るでしょう。しかしここでは,ある金属イオンに対して配位子が配位する,あるいは元々配位している配位子と別の配位子が入れ替わるという置換反応に話を絞って考えることにします。

上で「ある金属イオンに対して配位子が配位する」と書きましたが,実際のところ,金属イオンの化学反応を考える際は,裸の金属イオンがあって,そこに配位子がやってくるわけではなく,通常は溶媒に溶けた金属イオンに対して,やはり溶媒に溶けた配位子がやってくるわけですので,金属イオンは溶媒和しているのが普通です。典型的には,水溶液であれば,水和した金属イオンが反応の出発物質となるわけですので,水に溶けた金属イオンに配位子 $\ce{L}$ が配位するという反応は,アクア錯体のアクア配位子と配位子 $\ce{L}$ が交換する置換反応と考えることができるわけです。したがって,金属イオンであろうと,錯体であろうと,溶液中で反応するのであれば,元々配位している配位子と,それとは異なる配位子との置換反応というのが錯体における化学反応の最も基本的な形ということになります。

用語を定義しておきましょう。金属イオンに向かってやってくる配位子(Lewis 塩基)を進入基(entering group),既に錯体中の金属イオンと結合していて,化学反応によって金属イオンから外れて離れていってしまう配位子を脱離基(leaving group)と呼ぶことにしましょう。進入基 $\ce{Y}$ が金属イオン $\ce{M}$ と結合し,代わりに脱離基 $\ce{X}$ が金属イオンから離れていく反応を配位子置換反応といいます。脱離基 $\ce{X}$ は溶媒和した溶媒分子の場合もありますし,それ以外の配位子の場合もあります。式で書くと次のようになります。

\begin{align} &\ce{Y + M-X -> M-Y + X} \end{align}

以下に示しているのは,ヘキサアクアコバルト(II)水溶液に塩化物イオンを加えたときに,アクア配位子の一つが塩化物イオンと交換し,クロリドペンタアクアコバルト(II)が得られる反応で,配位子置換反応の典型例の一つです。

\begin{align} &\ce{[Co(OH2)6]^{2+}(aq) + Cl-(aq) -> [CoCl(OH2)5]+(aq) + H2O(l)} \end{align}

ではこのような配位子置換反応はどのような場合においても起こるのでしょうか。もちろん進入基である塩化物イオン $\ce{Cl-}$ が極めて希薄であれば,化学平衡の原理から生成物がほとんど得られないということは起こりうるでしょう。では逆に,進入基である塩化物イオンが豊富に存在する条件であれば,この反応は大きく右に進み常に置換生成物が主として得られるのでしょうか。前節までに学習した,熱力学的に安定な状態と速度論的に安定な状態の議論を思い出しましょう。ここで問題にしたいのは,生成物が熱力学的に安定であるならば,常にその生成物が得られるかどうかということであり,その答えは否であることは既にお分かりかと思います。いくら生成物が熱力学的に安定であったとしても,そこに至る化学反応の反応速度がとても遅ければ生成物を得ることはできません。

ではどのような条件のときに反応が進みやすいのでしょうか。配位子置換反応の速度定数を左右する要因は種々ありますが,特に金属イオンの違いによって,以下のような一般的傾向がみられることが知られています。

  • $\ao{s}$ -ブロック元素のイオンは $\ce{Be^{2+}}$ と $\ce{Mg^{2+}}$ を除いて置換活性。
  • $\ao{d^{10}}$($\ce{Zn^{2+}}$,$\ce{Cd^{2+}}$,$\ce{Hg^{2+}}$)は置換活性。
  • 3 価の $\ao{f}$ -ブロック金属イオンは置換活性。
  • LFSE やキレート効果による安定化がない金属イオンは置換活性。
  • $\ao{3d}$ 遷移金属の $\ce{M(II)}$ は,比較的置換活性。
  • サイズが小さい $\ao{3d}$ 遷移金属イオンは,$\ce{M-L}$ 結合が強固であり,他の配位子が立体的に近づきにくいため,比較的置換不活性。
  • $\ao{d}$ -ブロック元素の 3 価イオン $\ce{M(III)}$ は 2 価の $\ce{M(II)}$ に比べて比較的置換不活性。
  • $\ce{Cr(III)}$,$\ce{Fe(II)}$,$\ce{Co(III)}$ といった $\ao{d}^3$,LS $\ao{d}^6$ の電子配置を有する金属イオンは,LFSE の安定化により比較的置換不活性。
  • $\ao{4d}$,$\ao{5d}$ 遷移金属イオンは LFSE が大きく,$\ce{M-L}$ 結合が強いため,置換不活性。

いろいろな金属イオンのアクア錯体が水溶液中で別のアクア配位子と配位子交換する反応速度定数をまとめた図を以下に示します(S. F. Lincoln Helv. Chim. Acta, 2005, 88, 523-545. より引用)。

金属イオンの水和反応の配位子交換速度

この図の横軸はアクア配位子が交換する置換反応の速度定数(対数表記)で,右にある金属イオンほど反応が速い(置換活性)であることを示します。中央の $10^0$ が速度定数 $k_\ce{H2O} = 1\unit{s^{-1}}$ で,六配位であれば,1 秒あたりに錯体分子当たり 6 回の配位子交換が起こっていることになりますから,これより右側であれば我々の認識できる程度の速度で置換反応が進むと考えてよいでしょう。$k_\ce{H2O}$ の逆数は配位子が金属と結合していられる平均の時間ですので,図の右端の $k_\ce{H2O} = 10^{10}\unit{s^{-1}}$ というのは,配位しているあるアクア配位子は平均 $0.1\unit{ns}$ で他の配位子に置換される(六配位であれば錯体分子当たり $17\unit{ps}$ に 1 回置換反応が起こる)ということになり,このレベルになると水溶液中での水分子の拡散速度と大差ないので,結合している配位子は金属イオンに引き止められることなく,やって来た別の配位子とほぼ自由に置き換わっていると考えてよいでしょう。

一方,図の左ほど置換不活性となるのですが,金属イオンの分布は図の右側に偏っています。すなわち,多くの金属イオンは置換活性であり,置換不活性となるにはそれなりの理由がありそうです。速度定数が特に小さいのが $\ce{Ir^{3+}}$ と $ \ce{Rh^{3+}}$ です。$\ce{[Ir(OH2)6]^{3+}}$ 錯体では,結合しているアクア配位子が生き残る平均の時間が $298\unit{K}$ の条件でなんと 300 年にも達します。錯体分子当たりで見ても,50 年に 1 回程度しか置換反応が起こらないということになります。$\ce{Ir^{3+}}$ と $\ce{Rh^{3+}}$ の置換反応は,なぜこのように極端に遅いのでしょうか。

どちらも 3 価で結合が強く,LFSE による安定化が大きくなります。また,ロジウムとイリジウムはそれぞれ $\ao{4d}$,$\ao{5d}$ 遷移金属イオンですので,これも LFSE が大きくなる要因です。さらにこれらは 9 族の同族元素で,LS $\mathrm{d^6}$ の電子配置を持つため,LFSE による安定化の影響を強く受け,上のリストで置換不活性となる複数の条件を満たしていることが確認できます。$\ce{Cr^{3+}}$ は $\mathrm{d^3}$ 電子配置ですが,やはり LFSE が大きいため,速度定数が比較的小さくなっています。では $\ce{Co^{3+}}$ はどうでしょうか。コバルトも 9 族元素なので,ロジウム,イリジウムまでとはいかなくとも置換不活性になりそうですが,図には見当たりません。この図は水和置換反応の速度定数ですが,$\ce{Co^{3+}}$ は水を酸化してしまうため,アクア錯体として安定に存在することができません。アクア錯体でなければ $\ce{Co^{3+}}$ も置換不活性となります。

最終更新日 2025/06/26